はじめに

このブログを書こうと思ったきっかけは、ふたりの子供達が社会に向けて歩み始め、少し大人になり、今までの育児を振り返る余裕が出てきたからです。

育てづらさとわが子可愛さで周りに理解を求めれば求めるほどうまくいかなかった時期もありました。このような経験をしたお母さんたちが少なからずいると思います。

そういった辛さと毎日繰り返される子供達とのバトル、泥沼だと思っていた日々の中でどうやって気持が楽になってきたかを書きたいと思いました。

批判されたこともありましたが今思えば不登園から始まり小学校から中学校卒業までの7回の転校も子供達にとっては良かったのかもしれません。

私の経験を読むことで少しでも気持が楽になって貰えれば幸いです。

娘の誕生

 1999年6月29日。「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」と医師の声の後にいっぱくおいて私の娘は大きな産声をあげました。
どこの親も同じだと思いますが健康な子供に恵まれたことがとても嬉しかったことを覚えています。

 しかし、入院中から気になっていましたが片目は開かず、片足は曲げたまま。「この子、大丈夫かしら?」と心配になり検診のときに医師に相談しましたが「問題ないですよ。この子の癖みたいなものです」と言われそれでも不安だった事を覚えています。

 そしてもう一つ気になることがありました。夜泣きが酷く眠らないのです。眠らないと言うよりは布団に下ろせないのです。音楽をかけたり子守唄を歌ったりして、ようやく眠り始めた頃にそーっと布団におろそうとすると「ギャー」と火がついたように泣き出します。

 色々なおろし方を研究?しましたが全くだめでした。鉛筆1つ、床に落としただけで目を冷まし泣き出す娘。諦めた私は座椅子で娘を抱えて仮眠をとるのが精一杯でした。もちろん日中も泣いてばかりだし、ウトウトしても30分もたたないうちに起きてしまいがっかりする日々でした。

 足や目は自然になりましたがこれが癖だったらちょっと難しい子かもしれないと全く関係ないことなのに考えてしまうくらいでした。

 私は娘の誕生から1週間後に23歳になったばかり。若い上に初めての子育て。そして生真面目な性格。出産した病院では母乳育児に力を入れていて産後すぐから部屋のビデオで子育てのノウハウが流れていました。そして子育て記録のようなものをもらって退院しました。

 真面目な性格の私は当然、記録をつけます。何時にミルクをあげて、何時にお風呂に入れて、何時に寝かしつけて。ミルクも何CCと書く場所がありましたが母乳育児のために量はわかりません。それがまた不安でした。

 市販の粉ミルクを飲まなかったので軽量して追加する事ができずお腹が空いて泣くのかとだいぶ気にしていましたが私は母乳の出が良かったので泣けば与えることができました。けれど泣く娘に母乳をあげようとしてものけぞって嫌がり、育児記録の見本からはかけ離れた生活と寝不足、主婦としての家事仕事に疲れ果てていました。

 夜泣きと小さな物音で起き出す娘だったので夫からは朝、8時まで寝ていたいと言われ、毛布に娘をくるみ朝まで外を歩くことがしょっちゅうありました。

 今思えば、娘がハイハイをするころには育児ノイローゼ気味だったのかもしれません。小さな物音でも泣き出す娘だったので私もかなり神経質になり向かいのマンションで毎日、布団を叩く奥さんに怒りを覚えたくらいでした。

 ある日、洗濯物を畳んでいるところへ娘がハイハイをしてきました。そして、畳んだタオルがくずれました。夫が帰宅する前に家事の全てが終わっていなければならないのに。常に怒られていたので私がそう思い込んでいただなのかもしれませんが…とにかく夫が帰宅したら夫の世話に集中しなければなりません。

 タオルを崩した娘に対してまさに「カッ」となり瞬間的に手で押しのけていました。
 私は自分の行動に驚きすぐに娘を見るとバランスを崩し鼻をぶつけ鼻血を出している姿が目に入りました。

 私が人に対して「カッ」となった経験は初めてだと思います。しかも、赤ちゃんに対してなんてあり得ないことだと思っていました。私は保育士などの資格を持っています。短い期間でしたが保育園や障害者施設で働き虐待する人を理解できないと常日頃、思っていました。その私がこんな恐ろしいことをするなんて…

 私は娘を抱きしめて泣きました。こんな母親で申し訳ないと思う気持ちとどんな子育てをしたらいいのか、何をどうしたらいいのかわからずにただ、ただ、泣きました。


2人目誕生

娘は生後3か月頃には人見知りが酷くなり、父親に対しても人見知りをしたくらいでした。後追いもひどく私の姿が少しでも見えないと泣き喚くのでトイレを使うときはドアを開けっぱなしにし、料理をするときはおんぶをして重たくなった時は台所のシンクの上に座らせるかごみ箱の上に洗濯かごを置いてその中に入れて私のことが見えるようにしないといけないほどでした。

娘が1歳9か月の時に下の子を出産するために入院した時には実家の母に預けましたが「かーかんは?(お母さん)」という言葉を繰り返し、あまりにもぐずるので孫を連れて外に出て好きなように歩かせたそうです。(まさに母をたずねて三千里状態です)そろそろ帰宅してもよいかと思い声をかけると嫌がって不機嫌になり、また歩かせるということを何回か繰り返したそうです。結局、私が入院していた個室へ娘と私の母も宿泊をすることになりました。

とにかくあきらめない子供でした。本来なら乳児から生活のリズムがついてきてまとめて眠るようになったり、人見知りをして泣いたとしても数時間もすればそれなりにあきらめるのが普通だと思います。それが全くありませんでした。こだわりも強く、何が気に入らないのか毎日、「お風呂に入ろうね」と声をかけると「いやだ」と言い、「それなら入らなくてもいいよ」と私が言えば「お風呂にはいる」と娘が言い、「それなら入ろう」「いやだ」と延々と続き、娘が泣き喚き、私がいらいらするということを繰り返していました。すべてにおいてこのような感じでしたからとにかく大変でした。

弟とは1歳9か月違いですが学年で言うと年子になります。赤ちゃんの時から預けることもできず気難しい娘に弟や妹ができれば一緒に遊んだりして母親に対する執着心も薄れ何かが変わるのではないかと期待して早く次の子供が欲しいと考えていたので希望通りに子供を授かれたことがとても嬉しかったです。しかも難産だったので喜びもひとしおです。

しかし、私の考えは甘かったのです。娘のこだわりや音の過敏さ、生活リズムがつかないことは変わりませんでした。なかなか寝付かず、すぐに起きてきて夜泣きをする娘と生まれたばかりの下の子の夜の授乳が何よりも地獄でした。下の子は不器用というのか吸う力が弱いのか母乳でも哺乳瓶でもうまくミルクを飲むことができず、おなかがいっぱいになる前に力尽きてしまうのでまとめて眠ることができませんでした。いろいろなメーカーの哺乳瓶を試しましたがどれもダメでした。

娘は寝付くときの哺乳瓶の卒業ができていませんでした。おむつもつけています。それも一時のこと。年齢が近いのだから数年もすれば一緒に遊ぶようになるはず。喧嘩をしながらも仲良く成長していくはず。

私の考えは甘かった…

2001年、二人の子供の誕生に喜んだあの瞬間が嘘のような子育ての幕開けとなりました。

公園デビューと絵本

娘は1歳くらいになっても相変わらず夜泣きはするし、昼寝もしてくれないので生活リズムをつけてほしいこともあり、公園デビューをしようと決めました。近所の公園をいくつか回って同じ年代の子供がいる公園を探していた時に10組以上の親子が集まる公園を見つけました。

私はほぼ毎日、午前中に娘を連れて公園に行きました。娘は片時も私から離れず私と一緒に遊びたがるのでよそのお母さんたちのようにほかのママ友とおしゃべりをしたくても全くできず、私の気分転換にはあまりなりませんでした。ほかの子供たちは幼いながらも母親から離れて遊ぶことができているのでうらやましく思いました。娘は自宅にいても一人遊びができませんでした。

公園デビュー後、昼寝をたまにするようになったものの、1時間も眠ることはあまりありませんでした。しかも公園から帰ってすぐに昼食を食べられる状態にしていないとヒステリーをおこし、おさまりがつかなくなるので公園に行く前に昼食を作り、お皿に盛りつけていなければいけませんでした。

娘がヒステリーを起こすのは疲れた、おなかがすいた、眠いといった理由からだったように思います。これは子供たちが大きくなってからもそうでしたが気持ちのコントロールが難しい特徴を持っているのでこういったストレスがかかると不機嫌になりやすく暴れる、暴言を吐くといった問題行動の引き金になっていました。そのため、「楽しかったね」と1日を終われるはずが親子喧嘩、姉弟喧嘩で毎回、悲惨な結果になっていました。

身体的ストレスが問題行動につながると気づくまで少し時間がかかりました。気づいてからも疲れさせたり、興奮させすぎないようにお出かけやイベントのスケジュール調整や時間配分を考えましたがもともと光や音に過敏だったこともあり、興奮しやすくうまくいくことがありませんでした。

自宅で遊んであげる時も興奮させすぎないように注意する必要がありました。興奮してしまうとさらに寝つきが悪くなり眠いのに眠れないことで不機嫌になり大変なことになってしまいます。

話を戻しますが公園デビューの目的の生活リズムをつけるという目的は私がタイムスケジュールのように行動していたので何とかなりましたが最大の目的の睡眠に関してはあまり解決しませんでした。すべてに関して少しでもタイミングを間違えると娘が泣き喚くので私は毎日、心身ともに疲弊していました。

そんな状態でしたが公園で知り合ったママ友さんが自宅を開放して絵本の読み聞かせや絵本の貸し出しをすることを始めると聞きました。

私自身が絵本が好きだったので子供が生まれたらたくさん本を読んであげようと思い自宅には100冊くらいの絵本がありました。本を読むことでいろいろなことを学ぶこともできるし、大人が読ませたいような古典文学などを子供が好まなくても笑える本、雑学、ファンタジーなどいろいろなジャンルがあるので読書が趣味になれば人生がとても楽しくなると思ったからです。

そんな思いがあったので私も立ち上げのメンバーに入ることにしました。
娘が3年保育で幼稚園に入園するまでの間、絵本の会で年齢の近い子供たちの中で過ごしました。気性の激しい娘でしたが周りの方が優しい人たちだったので良い経験をさせてもらえましたし、私も良い内容の絵本をたくさん知ることができました。

毎日、トラブルがあるので気持ちの余裕はありませんでしたが寝る前の絵本の読み聞かせは子供たちが小学校高学年になるまで続け、絵本から児童書の読み聞かせへと内容は変わっていきました。時にはイライラしたり怒りながら読み聞かせをしていたので(本を読んでとせがまれて仕方なく…という日もありました)情操教育になっていたかはわかりませんが二人の子供は読書好きになりました。

子供が幼い時からイライラして怒鳴り散らすこともありましたが絵本が子供と私をつないでくれたと思っています。

息子

娘とは1歳9か月離れて生まれた弟は人見知りもなく揺れる草花を見てはにこにこ笑っている子供でした。しかし、言葉がとても遅く、娘のように「あれは?これは?」と質問をすることもなくお母さんと私を呼ぶこともありませんでした。用事があれば私の手を引っ張っていき無言で要求をする子供でした。いわゆるクレーン現象という自閉症の子供の特徴がありました。1歳になる少し前に撮った写真があります。ローラー滑り台を滑っているのですがローラーの音が苦手だったのか耳をふさいでいます。耳ふさぎもよくしていました。

ある日、息子をベビーカーに乗せてスーパーに行きました。息子が2歳を過ぎたころだったかもしれません。お店に入ると泣き喚き、いつもにこにこしている子がどうしたのだろうと思うことがありました。そんなことが何回か続いたときに娘が「この前来たときは○○コーナーから見て回ったのに今日は違う。もしかしたらそれで泣いているのかもしれないよ?」と教えてくれました。「まさか?」とは思いましたが次回からは同じところから見て回るようにしました。息子は泣きませんでした。娘は幼かったのですが細かいことに気づく利発な子供だと思いました。

息子はとても偏食で離乳食をほとんど食べませんでした。パンがゆもおかゆも野菜も食べませんでした。娘に手がかかっていたこともあり何を食べていたのか記憶にありません。食べたとしても飲み込むタイミングがわからないということがあり、声をかけると飲み込む、または、吐き出すという感じでした。離乳食が終わり小学生になってからもお肉以外は食べようとしないので毎食、5ミリ程度の野菜を食べさせるのに大騒ぎをして苦労をしました。保育園でもお皿の陰にグリーンピースをたくさん隠して先生が大笑いをしていました。

こだわりもとても強くよくヒステリーを起こしてひっくり返り頭を打ったり壁に頭を打ち付けたりすることがよくありました。例えばバナナを外で食べていた時に地面に数ミリ程度口からこぼれてしまいました。大泣きしながら地面に這いつくばり爪でひっかいて取ろうとするのですがなにせ数ミリの柔らかいバナナですから跡形もなく消えてしまいました。その時の泣き方は尋常ではありませんでした。息子は物にとても執着があり、たとえゴミだったとしても一度、自分の手に入ったものがなくなることに耐えられず、ごみを捨てさせるのも大変でした。

話し出したらきりがないことですが三歳児検診の時に誕生日プレゼントで祖母に買ってもらった新しい下駄をはいていったのですが息子が椅子に座って何気なく下駄の裏をみて「ぎゃー」と泣いて廊下にひっくり返りました。どうしたのかと様子を見ていると下駄の裏のゴムが少しすり減っていました。元に戻してほしいというような言葉を言っていました。なぜか下駄が好きでもらったときはとても喜んでいたので気持ちはわかるのですが「これもショックなのね」と。若い人の言葉でいうと「マジか!」という感じでした。

2人の子供たちは明らかにほかの子供達とは違っていたので区役所の保健士さんに相談をしましたが娘さんは利発なお子さんで息子さんはまだ幼いですから。とかお母さんが神経質ではありませんか?と言われ、助言らしきものはありませんでした。それも残念でしたが保健士さんが地域の子育ての講座か何かで私の住んでいる地域に来たことがありました。私は参加をしていなかったのですが絵本の会の代表者が地域でも活躍していたので保健士さんと話す機会があったようです。

ある日、絵本の会の代表者が子育てで悩んでいると保健士さんから聞いたけど大丈夫?というようなことを聞いてきました。私は保健士さんがどこまで話したのかはわかりませんでしたが相談したことを知られたくなかったので複雑な気持ちになりました。なぜ知られたくなかったのか?あの時の気持ちはよくわかりませんがほかの子供と違うとか自分が悩んでいるとかを知られたくないという見栄だったのかもしれません。保健士さんも絵本の会の代表者の方もただ私の力になりたかっただけだとは思いますがその時の私はもう誰にも相談しないと思ってしまいました。

娘の幼稚園入園と保育園への転園

娘は相変わらず毎日、泣き喚き、夜泣きもひどかったので幼稚園に行けば何かが変わるかもしれないと期待をして年少組から3年保育で入園させました。娘にも「幼稚園に行く?」と一応聞きました。「うん。」と娘は返事をしましたが意味は分かっていなかったはずです。

入園して早速、毎日の戦いにさらに問題が追加されました。母子分離ができていないので毎日、幼稚園に行きたくないと泣き喚き、朝食も食べさせられない、制服に着替えることもできないという状態でお迎えのバスが来る場所までパジャマのままの娘を担いで弟もつれていきました。バスに乗車する際も最大限の抵抗をしていました。

そういう状態でしたからご近所の方が虐待をしていると思ったのでしょう。通報されてしまい区役所から電話が来ることもありました。一生懸命やっているのに誤解をされてしまうことの悔しさとわかってほしいという気持ちと誰か何とかしてくれない?という気持ちがありました。

幼稚園に登園してからは先生がほぼ付きっ切りの状態で娘が落ち着いてきたころ合いを見て制服に着替えをさせて、髪の毛も素敵にアレンジして結んでくれました。若い先生でしたが優しくて頼りになる先生でした。娘は先生のことは好きでしたがだからと言って登園がスムーズにいくことはありませんでした。

毎日、幼稚園から帰宅した瞬間は上機嫌でいることが多いのですが入浴や食事、睡眠のことで不機嫌になってしまうことの繰り返しでした。当初の目的の母子分離と集団生活になじむ、友達を作る、毎日疲れて寝るのどれか一つでも達成されればよかったのですが入園したことによってさらに大変になっただけでした。

幼稚園は水曜日以外は毎日、お弁当を持っていきます。毎朝、わめく娘を相手にしながら作るのはとても大変でした。しかも弟もお弁当を欲しがるので2人分作らないといけないのです。冷凍食品と作り置きのものや簡単なものしか作って入れていないので2人分でもそんなに大変なことではないはずですが…

登園拒否が強く私が根負けをしたときは娘と息子と公園などに行きお弁当を食べました。娘が登園できた日は電車が好きな息子を連れて駅の近くまで行き電車を見てお弁当を食べて帰ったり…(これが朝ごはんです。)今思えば良い思い出なのでしょうか?よく見知らぬおばさんが「今が一番いいときよ。」と声をかけてきてくれましたがとてもそのように思える状況ではありませんでした。

娘は幼稚園に入園しましたが私が離婚をしたので年長さんから保育園に通いました。息子は年中さん。最初は認可園に入園できなかったのでいくつかの無認可の保育園で一時預かりをしてもらったりしていました。認可園に入園する前にいくつかの園でお試し保育をして自宅の近くの私立の保育園に入園をしようと思い区役所を通して正式に申し込もうとしましたが「あなたはいいかもしれないがこちらは迷惑です」と園長先生にすごい勢いで怒られたのでなぜそんなに怒られたのかいまだにわかりません。区役所にも手順を間違えたのか確認をしましたが間違ってはいなかったようですし…年子で手のかかる子供だったからでしょうか?

このころの私は、だれにも相談をすることもなく、どうせ保健士さんに相談しても無駄だし、虐待だと思われるからとかたくなになり、育児を一人で抱え込んでいました。そのため、情報もなく、助けもなく、毎日、イライラして最悪の状態でした。

けれど保育園に入園してからひとつはいいことがありました。登園拒否をあまりしなくなったのです。親の私からすれば、よくここまで野放しにするな~とか迎えに行ったら突然、遠足に行っていて子供がいないなどよくあって不満もありましたが決まり事や行事がない保育園だったので娘や息子にはあっていたようです。この子たちは行事や集団行動が苦手です。これはずっと変わることはありませんでした。

息子の教育相談と検査

娘は生後三か月から人見知りがあり、母親から離れることもなく常に不機嫌で…という感じでしたが息子は目線があわず、多動で言葉が遅いことは気になりましたが人見知りがなく、にこにこと笑顔があったので保育士の方に相談をしても「保育園では問題はないですよ。」と言われていました。

娘が保育園を卒園したことをきっかけに家庭の事情で引っ越しをしました。引っ越し先は外国人が多く住む地域でした。息子の転園先の保育園は大きな母体のある保育園でしたので安心して任せられる保育士と教育方針がありました。

この保育園は保育士は日本人ですが園児たちはほぼ、外国の方のお子さんでした。そのため、園内ではいろいろな国の言葉が飛び交っていました。転園する際に息子は多動で言葉が遅く、一日中、パニックをおこし、自傷行為があり…と説明をしてできれば配慮をしてほしいことを伝えました。

息子のクラスにはたまたま配慮を必要とするお子さんが一人いたので障害児加配の保育士が一人いました。そのため保育士が常に二人いる状態だったので息子のことも少し気に留めてもらうことができました。

息子は保育園が好きでした。この保育園では言葉が遅いことはあまり関係がありませんでした。バイリンガルなお子さんがほとんどで日本語も通じますが同じ国の言葉どうしの子供が母国語で話したり、時には違う言葉同士でやり取りをしていました。それで通じているのが不思議なくらい子供たちは遊びを通じて仲良くなっていました。

そして元気はつらつの子供達。日本人の子供ももちろん元気ですがパワーが違います。多分、躾に関して日本人の感覚とは違うからだと思います。 躾がなっていないとかそういうことではなく、子供らしさが尊重されているような感じでした。

後にも先にも元気に楽しく運動会で踊ったのはこの保育園での一回のみです。首にレイと呼ばれる花の首飾りと両腕に花の腕輪をしてノリノリの外国の音楽に合わせてくるっとターンをして手をたたいて…誰かのお父さんが指笛を鳴らして…今でもあの音楽と息子の笑顔と踊りが忘れられません。

こういう保育園でしたから息子の多動は特に目立たず、言葉の問題も目立ちませんでした。卒園式の際、園児が一人ずつ将来の夢を発表するのですが息子は言えないので先生が横で「楽しかったです。」と何度もささやきようやく小さな声で「楽しかったです。」と言えました。

私は卒園前に小学校は普通学級で大丈夫でしょうか?と担任の先生に相談をしていました。特に問題はないと言われていましたが心配だったので教育相談を受けることにしました。

教育相談では私が心理士の方と話をしている間、息子がおもちゃで遊んでいました。おもちゃの赤い屋根がないときだけ「ない」とだけ伝えに息子は来ましたがそういった様子も含めて、心理士の方が、息子が母親に対してもあまり意識がなく自分の遊び以外に興味や反応を示すことも無いので「病院で相談をしたほうがよいでしょう」と仰って、紹介状を書いてくれました。

病院では問診をした後、日を改めて脳波の検査をしました。寝ている時と起きている時の脳波の違いを検査しました。医師としては逆の結果を予想していたようですが寝ている時のほうが起きている時より脳波の異常が強く出ていました。

「発達障害の疑い」と検査結果が出ました。

息子、小学校入学

病院で発達障害の疑いと検査結果は出ましたが担当の医師が「僕も脳波の異常があるので気にすることはありませんよ。」と不思議な励ましをしてくださり、私が求めていた今後の医療的なサポートとかにはつながらず検査のみで通院は終了してしまいました。

娘は小学二年生になっても寝つきの悪さや夜泣き、生活の場面が変わるごとに「やる、やらない」で癇癪を起すことは治りませんでした。そして、極度の不注意型のために怪我が絶えず、忘れ物や他人の物を間違えて持って帰ってきたり、学校生活も日常生活もとても困っていました。息子も相変わらずで何かしらの医療は必要だと考えて息子が小学校へ入学をするのを機会に子供の発達障害に詳しい病院のある地域に引越しをすることにしました。

息子は普通学級へ入学しました。ベテランの男性教師で優しかったので嫌がることなく登校しました。しかし、自分の気持ちを言葉で表現できない、字が書けない、授業の内容に全くついていけないという状態でした。テストもできる状態ではなかったので、その時間はほかのお子さんに迷惑が掛からないように机を窓側に向けて外を見て過ごすように先生が配慮してくれていました。

運動会では息子が大パニックをおこして、担任の先生にかみついたり、泣いたり大変でした。担任の先生がすぐに音響の音を下げてくださり、記憶はあいまいですが徒競走のピストルも鳴らさないように配慮をしてくれていたように覚えています。先生がいろいろと配慮をしてくださいましたがほかのお子さんと同じように参加することはできませんでした。

学校生活では勉強以外でも問題がありました。もともとおなかが弱かったのも原因だとは思いますが、自分の気持ちをうまく伝えられなかったり、トイレをぎりぎりまで我慢する癖があったので失敗することが毎日のようにありました。着替え一式は持たせてありますが一日に数回、失敗することもあり、着替えが足りなくなるので見たことがない洋服で帰宅する日もありました。下着だけは新品のものを買って返さないといけないのですが洋服は借りることができたのでとても助かりました。

一年生の二学期まで普通学級で過ごしましたが、支援学級で生活の自立の練習や勉強もゆっくり息子のペースで学ぶほうが良いと思い三学期からは支援学級に移ることにしました。

病院は、児童精神科のある大きな病院に通院を始めました。検査の結果、娘と息子は特定不能の広汎性発達障害と診断されました。

娘と息子の転校

娘と息子は常に行動をともにしていました。周りの方からは仲が良いと言われていましたが依存に近い関係でした。娘は友達が欲しいと言っていましたが友達を作ることが出来ずにいました。息子からは友達が欲しいとは聞いたこともありませんが、とにかく姉の後をついていく感じでした。

息子は、支援学級に移りましたが余計に不安定になり登校拒否や暴れるといった問題行動を起こすようになりました。支援学級の担任の先生は男性教諭で感情の起伏が激しく、熱意が無い先生でした。先生がいらいらしている時は、教室の前に子供を立たせて「だからお前たちは障害児なんだ!」と怒鳴ることもありました。授業参観日だったか公開日だったのか保護者が多く、来校しているのに…。

息子は支援学級には行かず、勝手に姉の教室へ通うこともありました。ありがたいことにベテランで理解のある女性教諭だったので、同じ教室で過ごさせてくれることもありました。また、保健室の養護教諭の先生も若い女性教諭でしたが理解があり、普通学級で過ごせない生徒と一緒に息子にも勉強を教えてくれました。

養護教諭の先生は、本来なら支援学級の先生が面倒を見るべきだと息子の担任の先生に意見をしてくれたこともありましたが、改善されることはありませんでした。

支援学級には支援員という補助の先生が数人いました。担任の先生は熱意がありませんでしたが支援員の数人の先生は、子供たちのことをよく考えてくれていました。小学校の周りは田んぼや川、野菜の無人販売所などがあり、一緒に出掛けて目にしたものを題材にして、子供たちにいろいろと話しをしてくれたようです。このころは、息子とは会話がほとんど成り立たず、時々、娘が通訳をしてくれていたのでこんなことがあったのかな?と思うことはありましたが実際のことはよくわからないことがほとんどでした。現在の息子から支援員の方と出かけたことは楽しかったと聞いています。

2年生の5月を過ぎても教科書が用意される様子もないし、授業はどうなっているのかと担任の先生に話してもよくわからなかったので校長先生に相談しました。すると担任の先生は、今から用意をしようと思っていたというようなことを言って、しばらくして、教科書が用意されました。

教科書がそろった後も先生が生徒を指導することができなかったので生徒の出席率が悪くなっていきました。ある生徒はフリースクールなのか塾なのかへ移動をして登校をすることがなくなりました。ほかの保護者の方も不満があるようで平日に登校せずに親子で出かけたりしている人も数人いました。

私は直接、校長先生に相談をしましたがあまり取り合ってもらえなかったので、教育委員会へ相談をしました。これが大きな失敗でした。

息子はパニックをおこして、暴れるタイプですからそれを理解してほしくて、例えば、一日の流れをタイムスケジュールにして細かく確認をしながら見通しを立てて過ごせば、だいぶ落ち着けるとかそういった支援を学校でしてほしいと説明はしました。

しかし、これは息子に限らず、ほかのお子さんにも良い方法であると私は考えていましたが教育委員会のほうでは、私が息子だけを特別に見てほしいと言っているように受け止めたようです。私はモンスターペアレンツと思われてしまいました。

このころに発達障害児の親の会に入っていました。代表者の方のお子さんが同じ支援学級に在籍していました。教育の場は何も改善されず、学校側からは煙たがられ、いたたまれなくなって相談した時に言われた言葉が「一人で戦ってはだめだよ。何人かの意見を集めないと。」

確かにその通りだとは思いますが意見を集めるとかそういう雰囲気ではなかったのです。ほかの母親たちはもめごとが苦手というのか、学校と関わるくらいなら家庭で世話をするほうを選んでいました。何よりも私がみんなの意見を集めるというような力がありませんでした。

息子が2年生の後半だったと思いますが、相変わらず不安定で家でも学校でも暴れて、まともに登校する日も少なくなってきて、私が限界だったので転校をすることにしました。息子を連れて、支援学校も見学しました。さすが障害児教育の専門で先生方も理解があり、教育に工夫がありました。もう一つは公立の小学校ですが支援学級が1クラスではなく、個性によって3クラスに分かれている学校を見学しに行きました。私は、支援学校のほうが安心かとは思いましたが息子が支援学級を選択したのでそちらに転校をすることにしました。

転校をするためには引っ越しをする必要があります。このころ、隣に住む少し変わった家族のところに娘が入り浸って帰って来なくなることが度々ありました。その方に娘が帰宅をするように促してほしいとお願いをするのですが「うちは迷惑だとは思っていないから。」と言って伝わらないのです。娘も「お母さんより優しいからあの人のほうが好き。なんであの人のことを悪く言うの!」とものすごく怒って話になりません。私は、ただ、帰宅をしてと言っただけなのに。もともと認知のゆがみがあり、怒られたと勘違いをして、いきなりキレたりしますし、母親を親として特別に思うことがなかったので、引っ越しをするしかないと考えていました。

息子の学校問題と娘のご近所問題が重なり、引っ越しと転校をしました。二人を同じ学校にすると常に行動を共にして先生方にも迷惑をかけるので別々の学校に転校をさせました。

姉弟関係

娘と息子は常に一緒で仲が良いといえばそのように見えますが取っ組み合いのけんかが絶えませんでした。どこの家庭でもお姉ちゃんだけずるいとか弟ばかりずるいと言って、嫉妬をしたり、ライバル心を持つことがありますが、この二人は損得勘定がとても強いので普通に言い聞かせて喧嘩の仲裁をする事ができませんでした。

例えば、おやつやご飯も見た目でどちらか一方の量が多く見えた場合には、喧嘩が始まり、時には、家のものを破壊するので計量して見せて、納得をさせなければいけませんでした。

家にあるすべてのものに名前を書いたり、シールを貼って持ち主がわかるようにしていないと喧嘩になってしまいます。しかし、持ち主が解るからこそ勝手に触ったとか心狭いことを言って喧嘩になることもありました。こんな状態ですから、貸してあげるということもできませんでした。特に息子は、絶対に貸すことができませんでした。

母親である私のものでさえ、名前を書いていないと私には使う権利がないという感じで怒り狂う始末です。家族で共通のものには「みんなの物」と書きますが共通のものを誰がどのくらい使用するかの時間や頻度で喧嘩になります。子供たちの好きな本でさえもシールや名前を書いて所有者を明確にしていないといけない状態でした。

家族でご飯を食べる時も椅子の位置やテーブルを使用する範囲で「こっちに来るな!」「寄りすぎている!」とくだらないことで喧嘩になり、穏やかに食べることもできないのでテーブルに境界線のテープを張ったり、椅子の位置をテープで張ってみたりしました。

しかし、不注意な娘が飲み物やみそ汁、食べ物を毎回、ひっくり返し、弟が「僕の服が汚れた」と騒ぎ出すので2人が高学年になる頃には、服を脱がせ、パンツだけにして、ミニテーブルを一人一台用意し、もちろんテーブルの位置はテープで印をつけて、並んで食べさせました。

子供たちが小さい頃は、思いやりのある子に育ってほしくて、「貸してあげたら?」と声をかけていましたが、それがかえってひどいトラブルになるのでだんだん、あきらめるようになっていきました。

娘が三歳になるかならないかの頃に近所のお友達と遊んでいました。友達のお子さんが娘が使っている鉛筆を使いたいそぶりを見せたので「貸してあげたら?」と私は娘に声をかけました。

すると、娘が椅子に座っている私のそばまで歩いてきて、いきなり鉛筆で私の太ももを刺しました。びっくりしました。貸したくないとしてもこんなことをするなんて…

こんなことがあってしばらくした頃、公園で娘と同年代の女の子と砂場で遊んでいる時にこんなことがありました。

その子のお母さんが自分の娘に「お友達にもバケツを貸してあげたら?」と声をかけました。するとその女の子は、そばにいた私の頭をバケツで思いっきりたたきました。目から星が飛び散るかと思うほど痛かったです。

その子のお母さんは、とてもショックだったようで娘さんのことをとても叱っていました。鉛筆で刺すほうが怖いですが、多少、気が強い子供ならこういう行動に出ることがあるのかと少し、安心をしました。

乳幼児期ならよくあることかもしれませんが私の子ども達は小学生になっても中学生になってもこんな感じでした。

息子は、縄張り意識がとても強いので、布やひも、家具などを使って自分のテリトリーを囲っていました。子供は秘密基地が好きですが、そんなかわいいものではありません。家じゅう蜘蛛の巣を張り巡らせたような状態で、自分のテリトリーを侵されないように威嚇をしてきます。

毎日、寄るな、触るな、盗った、盗られた、叩いた、壊された、嫌味を言われた、嘘をつかれた、などと殺伐とした会話しかなく、それを諭そうとすると恨みの矛先が母親へと変わり、姉弟喧嘩の仲裁だったはずがいつの間にか、姉弟同士で結託して母親をなじるという行動に出る子ども達にイライラし、疲れ果ててしまいました。

そんな二人にどう接したら話が通じるのか解らなくなり、だんだん、ふさぎ込むようになって気が付くと鬱気味になり、寝たきりで過ごすことも多くなっていきました。 

仕事も登校拒否をする息子をスクールバスのバス停まで担いで行く気力がない日は、休むことがあり、長続きせず、転職を繰り返していました。

一人では育てられないと自覚した



息子が小学2年生の頃は、言葉での意思疎通が難しく、思い通りにならないことがあったり、イライラすると床や壁に頭を打ち付けることが毎日ありました。打ち所が悪く、後頭部を切った際は、夜間救急で縫ってもらったこともありました。外出中でもキレると「死んでやる」と言って、わざと道路に飛び出したり、行方不明になることもありました。

ある時、理由は覚えていませんが、、息子が公園から帰る途中の歩道で暴れだしました。たまたま通りかかった2歳くらいのお子さんに息子がぶつかってしまい、小さなお子さんが鼻血を出してしまったので、すぐに謝罪をしました。そして、目の前の公園で手当てをしようと思いましたが恐怖の目で私と息子を見て、お子さんを抱きかかえて走って逃げて行ってしまいました。

公園の横のマンションにご自宅があったようで、マンションの階段を上っていくのが見えたので、階段そばで子供を遊ばせながら立ち話をしている数人の方に事情を話し、謝罪をしたいので、今の方がどなたなのかを教えてほしいと話しましたが、誰も答えてはくれませんでした。子供を抱えて走っていくお母さんにその方たちが話しかけているのを見たので、明らかに知り合いではあると思いましたが、私とは関わりたくないというのが見て取れました。

謝罪に改めて伺うべきとは思いましたが、かえって嫌な思いをさせてしまうと思い、諦めました。あのお母さんの恐怖の顔が忘れられません。私が逆の立場でも怖いと思うし、わが子が怪我をさせられたショックと早く手当てをしたい気持ちと逃げたい気持ちはわかります。でも、私もとても悲しい気持ちになりました。

娘や息子は、よく暴れるし、私の言うことを聞かないので、「お母さんの言うことが聞けないなら一緒には暮らせない。どこかに預けてしまうからね。」と私はよく言っていました。母親がこんなことを言ってはいけないことは、よくわかっています。私なりに、なだめたり、すかしたり、ほめたり、抱きしめたり、もので釣ったり、叱ったり、いろいろな方法を試しましたが躾ができないのです。

一瞬で機嫌が変わったり、昨日、出来ていたことができなかったり、娘は屁理屈ばかり言ったりするので、私が根負けをして、一貫したルールで毅然とした態度が取れないので、余計に子供たちが私を馬鹿にして言うことを聞かないという悪循環にはまっていました。

実家とは距離が離れているので、手伝ってもらうことはできませんが、頻繁に電話をかけて、話を聞いてもらっていました。母からは、この子たちには、脅し文句は通用しないから、やるといったことは実行したほうが良いことと私も理屈っぽいのでそれはあまりよくないのではないかと言われていました。このころから、子育てにも疲れ果てていたので、児童相談所で一時保護をしてもらうことを考え始めるようになっていました。



はじめての福祉の手

一人では育てられないと自覚してから児童相談所に相談することも何度か考えましたが児童相談所というと虐待の問題解決や施設に預けるための相談所というイメージが強く、育てにくい子供の育児相談を気軽にする場所という感じがせず、敷居が高く感じたので、なかなか相談できずにいました。

このころ、(息子が小学二年生ころ)発達障害の親の会に入り、似たような悩みを持つ親同士で集まり、日々の悩みを聞いてもらうことが多くなりました。特に代表者の方には個人的に相談にのってもらい、だいぶ気持ちが楽になりました。

今まで一人で、子育てをしてきて、子供たちが不登校気味で私自身も精神的に疲れている話を発達障害の親の会の代表者の方に話をすると児童相談所に一時保護という形で預けて、親子ともに距離を取り、子供も私も気持ちを落ち着ける時間を作ってはどうかとアドバイスをもらいました。

何度か児童相談所に預けたいと思うことがありましたが、子供は母親が育てるべきだから、それは最終手段だと思っていたので、そのようなアドバイスをもらい、気軽にというわけにはいきませんが、そのような形で児童相談所に助けてもらうことも悪いことではないと思えるようになりました。

そう思うようになってから、何度か児童相談所に相談しようと思っていましたがやはり、特別な場所というイメージが強く、怖くてなかなかできずにいました。そんなある日の夜、息子がいつものように家で暴れて、その勢いで家を飛び出し、大きな道路に飛び出し、そこでひっくり返りました。

何とか家に連れ戻しましたが、息子は暴れ続けて、手に負えなかったので警察を呼びました。子供達には、家で暴れて、壁やガラスを壊したりするたびに「警察を呼ぶからね」と言っていましたが今まで脅し文句で終わっていたので、子供達もどうせ脅し文句だろうと高を括っているところがありました。

私はこの時、児童相談所に一時保護をお願いする覚悟をしていました。普通に相談しに行く勇気がなかったので、何かきっかけが無いと動けずにいたからです。しかし、児童相談所は17時には締まり、連絡が取れなくなります。我が家で事件が起きる時は夜が多いので、行動に移すことがなかなかできずにいました。

警察の方が自宅に来ると息子も驚いたのかすぐにおとなしくなりました。「息子さんも落ち着いたようですし、帰りますね。」と警察官が言いましたが、児童相談所で一時保護をお願いしたいので、連れて行ってくださいとお願いしました。

夜の10時に息子を警察署の少年課に連れて行ってもらい、そこから児童相談所に連絡をしてもらい、「お母さん、本当にいいのですか?」と何度か確認され、私が「お願いします。」と言ったので一時保護所に預けることになりました。

息子はおびえて、泣き喚き、暴れだしたので数人の警察官に担がれて車に移動していきました。その時、息子が「最後にぎゅってして」と私に抱きしめてほしいと言いました。こんなことを言われたことがなかったので、覚悟をして行動したのに涙が出てしましました。

息子は、一時保護所に入所中に8歳の誕生日を迎えました。息子がどこにいるのかを教えてもらうことはできないので、児童相談所に誕生日祝いの手紙を持っていき、渡してもらえるようにお願いをしました。児童相談所では、これまでのいきさつや悩みを相談しました。

わずか2週間で息子は落ち着きを取り戻したということなので、帰宅をすることになりました。

息子は、相変わらず、こだわりが強く、パニックをおこしますが、ある程度のところでおさまり、私の話に耳を傾けるようになっていました。今まで、学校にもなじめず、家族以外と関わることが少なかったので、初めての集団生活、わがままがきかない生活がよかったようです。

私も親の会で相談したり、児童相談所で相談することで、気持ちが少し楽になりました。息子が居ない2週間の間で、心身の休息が取れ、福祉の手を借りても良いんだと思えるようになりました。

家事援助ヘルパー

息子が小学校1年生の時に子供たちが父親が欲しいと何度も言っていたことや二人の手がかかる子供を一人で育てるのがとても大変だと思ったことと、元夫がしつこく子供たちの面会を交渉してくることに疲れて、お見合いをしてあっという間に再婚をしました。

そんな再婚がうまくいくはずもなく、悪い人ではなかったのですが、子供たちがあまりにも言うことを聞かないので再婚相手の夫が子供に対して、怒鳴ることもあり、発達障害の理解を得ることもできなかったので、再婚生活は一年持たずにまた離婚をしました。

東京都は、離婚したばかりの母子家庭を支えるための家事支援のヘルパー制度があります。(16年程前のことで、現在もこの制度があるのかはし確認をしていません)私は、不登校気味の二人の子供を連れて行っても大丈夫な配達の仕事やポスティングの仕事をしていました。

常に子供が一緒で、家では姉弟喧嘩で暴れて、私の言うことも聞かず、親子三人だけの世界もよくないのではと思い、ヘルパーさんをお願いすることにしました。

案の定、他人に対して、拒絶反応を示した二人は、家事を手伝いに来てくれているヘルパーさんを侵入者とみなして、暴言を吐きました。私は、「お世話になっている方に対してそんな言葉を言うものではない」と何度か叱りました。

ヘルパーさんは年配の方で、とても落ち着いていたので、そんな子供たちの態度には、反応せずにおやつや夕食の準備をする中で、自然と関係性を築いていってくれました。家族以外の人と関われない子供たちにとって、とても良い経験になりました。

本来ならば、ヘルパーさんは家事支援の目的で申請しますが、私は子供たちに少しでも人間関係を経験させたいという思惑がありました。その気持ちからの申請でしたが、実際に家事支援をしてもらうことで、仕事と育児に疲れている私にも余裕が生まれてとても助かりました。

子育て、仕事、家事、すべてを一人で抱え込まずに頼れる制度があれば、お願いをするということをここでも覚えました。

食事のしつけとご近所からの誤解

以前も書きましたが、息子は、極度の偏食で、食べられるものがほどんどなく、野菜を食べさせたり、いつもと違う調理方法や味付けのものを出すと必ず、パニックをおこし、「絶対に食べない!」と言って大騒ぎをするので、無理やり、一口だけ食べさせたり、出した食事を食べないのなら、食べなくてもいい。その代わり、おやつやジュースでおなかを満たすのもダメだと言って、水とお茶以外のものを口にすることを許さないということも何度もしました。

息子は、学校でのトラブルや姉弟喧嘩、気に入らないことがあるとすぐに「絶対に食べない!」と食事の時間でもないのにハンガーストライキ宣言をします。明らかに母親を困らせてやろうという八つ当たりの気持ちが見え隠れするときが何回もありました。

娘は、偏食ではないのですが、気持ちの問題で、食事のメニューに文句を言うことがしょっちゅうあり、姉弟二人が食べたいものが違うので、時には別々の料理を用意していましたが、わがままになると思い、「出された食事に文句を言うなら食べるな!」と私も怒って、娘にも食べさせないということもしました。

食事に関しては、育児書を読んだりすると無理やり食べさせるのではなく、好きなものを好きな時に食べさせて、食べることは、楽しいことだと思えるようにしましょうとか、人それぞれ、おなかがすくタイミングが違うのだから、同じ時間に食べましょうということ自体がナンセンスだということが書いてあるものもあり、子供たちの自由に食べさせたりすることもしていました。特に自閉症の特徴が強い息子に偏食はわがままだというのは、酷なことのようにも思いました。

けれど発達障害だからと許してしまっては、食べられるものがほとんどなく、大人になったときに他人と食事を楽しむことができなくなります。社会に出ると食事を通じて、人とコミュニケーションをとる場面が増えてきます。その時に極度の偏食だと食事会に参加できなかったり、料理に文句を言うようでは、「あの人は、気難しい人だね」と思われるようになり、人間関係を築くのが難しくなると考えました。

そのため、なだめたり、すかしたり、時には怒って、一口食べさせ、ハンガーストライキをしたら2~3食ご飯を食べないということも黙認しました。お腹が空けば、反省をしたり、食べなかったことを後悔して、次回からは食べるようになるだろうと期待するのですが、あまり響かないようでハンガーストライキは中学生になってまで、しょっちゅう繰り返していました。息子は18歳になった今もおなかがすいたという感覚がよくわからないので、ご飯抜きは、そんなにつらいことではなかったようです。

会話ができるようになった今だから、「おなかが空いたという感覚がわからない」という言葉が聞けて、だから小さいときにご飯抜きのバツが通じなかったのかと納得しました。おなかが空いたという感覚は、わからないのですが、明らかにイライラしたり、胃が痛くなって体調不良を訴えてくるので、そうなる前に毎食の時間を決めて食べるように今、現在教えている最中です。

息子は、今ではいろいろなものが食べられるようになりました。磯の香りがする魚介類や昆布とウリ科の野菜はいまだに食べませんが、偏食はかなり良くなっています。一口だけ、チャレンジすることも嫌がらなくなりました。

食事に関しては、料理をすることで、興味を持てるようにもしました。娘は、2~3歳の時には、料理に興味を示していたので、まずは娘から教えました。3歳か4歳くらいの誕生日に祖母に子供用の包丁をプレゼントしてもらい、小学校に入ってからは誕生日プレゼントやサンタさんからということで、エプロンやかわいい調理道具を少しずつそろえていきました。

料理中に機嫌が悪くなったり、親子喧嘩や姉弟喧嘩になったりすることもあったので、理想的な母と娘のお料理レッスンではありませんでしたが…

私の食事に関する躾は、時には、ネグレクトという虐待に通じかねない危険なものだと思っています。子供が食事に関して、騒ぐから食べさせないし、私にも怒りがあります。でもなぜ、このしつけをしているのかを思い出すようにしていました。子供達にも「なんでも食べられたほうが幸せだよ。そのほうが楽しいよ。」と声はかけていました。いつまでも子供が言うことを聞かなかったと怒りや、イライラを引きずって、放置をするようなことはしませんでした。放置はしませんがこの戦いは、繰り返されていました。

娘は、口が達者で、お年寄りが好きでした。いつの間にかご近所の犬を散歩しているご老人や同学年の女の子の祖父と仲良くなったりしていました。そして必ず、私の悪口を言います。「お母さんは、ご飯を食べさせてくれない」「暴言や暴力が酷い」など。

休日の日は、娘が朝から犬の散歩に一緒に行くのだと言って、出かけることが多くなりました。しかし、なかなか帰ってきません。朝食もできているのにどうしたのかと心配して探しに行くとよそのうちで朝食をいただいていたりすることがよくありました。(食べさせてもらえないかわいそうな女の子ですから。)私は、引っ越しをするたびにいろいろなご老人に怒られ続けました。子供を虐待している悪い母親だと…今となっては笑い話ですが、 時々、友達に電話をして、「私の人権はどうなっている?」と冗談交じりに愚痴を言っていました。

虐待で亡くなるお子さんがいるこの時代で娘は恵まれていたのでしょう。世間は、子供は弱いと思い、守ろうとするものです。とてもありがたいことです。私は、穏やかな優しい母親ではありません。この子たちには脅しがきかないので、厳しい態度で接することが常にありました。娘からすれば、嫌な思いをたくさんしていたのはよくわかります。他人から私の子育てを理解されないのは、仕方ないのですが責められるたびに悲しい思いをしました。

私も心がすさんでいた時期があり、子育てについてご老人に怒られたときは、にらみつけたこともありました。こんな態度ですから、さらに私の印象は悪くなりました。今思えば、申し訳なく思います。

私はつらかったのですが、娘は憩いの場を近所で見つけ、かわいがってもらうことで心のバランスを保っていたと思えば、古き良き時代の子供は、みんなで育てるという理想的な形だったのかもしれません。